酷く正直に

幸せになっていく人達をみると、酷い罪悪感を感じる、私は不幸にならなければと思う。ズタズタに切り刻まれてズルズルと引きずられて火の中に放り込まれる、なんて愛情のこもった手厚い殺人を誰が犯してくれよう。幸せになろう願うことは、不幸でいようということに比べ酷く醜く痛みを伴うものだ。初めからそう幸せでいようと思うこと自体が不幸である証拠であるから。
麻痺していく、というのか、感情の麻酔を心臓に打ち込むのは、私本人であっても、感情を剥奪され、猿よりマシな知能としての私の行い。感情の扱い方なんて忘れるほどに麻痺した。得体の知れない異星人に遠隔されている程に知性のかけらもない言動にただただ驚くだけである。3日間も麻痺していれば、その日暮らしもいいところ、明日死んでも構わないと思うほどに薄情な知性となる。
ところで今朝は一時間ほど胃痛に妄想を重ねました。もし癌や不治の病で余命を知らされれば、身勝手にも再会したい人がいると。でもきっとその人達が幸せであるというのなら、遺書だけは残すことにしてと。わざわざ幸せな人達に不幸な話、いえもしかしたら幸せかもしれませんが、そんな事を知らせるなんて知性が許しません。
ええとにかく、幸せでなければいけないと思うのですが、ただそう装うことだけで現実との繋がりは保証される気がしてならない。それは、絵として言うと、感情を麻痺させたまま生きている人間は、3Dの映像として存在というより、ただ映されているだけなのです。ふれられないという諦めを前提として持てば人間はふれることはない。危険物と書いてある方がよっぽど性を刺激する。