天気が良い日に、夜は星の火に

ほんとは今日はネタがあったんだけど、忘れてしまった。せっかく書きつつまとめようと思ったのになぁ・・・と思いつつ思い出してきたのだ。
今日は天気の良さもさることながら、日記を書くことかな、思っていることを言葉に書いてみることである。さぁー俺は最近この行いがね、自己セラピーなんだろうなって思う。

まずここは自由である、例えば誰かといるときに殺してしまったり、見殺しにしてしまった言葉、苦いまま飲み込んだ言葉。この白い海に背中なるキーボードを押して泳がしてやると、ほらほら不思議と言葉が活き活きと海すら越えて空すらも自由に動き回る。これが本来の命ある言葉達の姿である。この言葉たちは自分の身を削るほどに産み落とした言葉だったりアクビみたいに何気なく、勝手に飛び出しちまうくらい生命力に満ちてたり。言葉なる思想が人間の何%を占めているのかわからない。使われている脳は30%であり、本能ではなく理性的な部分のほとんどは思想なり言葉である。そして本能ってのは残りの70%だと思うので、思想的な自由は人間を30%自由にしてくれる。いやありままでいることは本能的でいることでもあるから30%以上自由である。

そうまぁこうやって言葉達を自由にしてやると、窒息しかけで死にそうだった心が一気に息を吸い込んで、その反動は空に舞い上がるほどだ。こりゃ夢を見るときに似てる。夢はもうその自由な心がビジョンとして表れてるからねぇ、空だって飛んじゃうし、誰かを殺してしまうし、殺されたり生き返ったり、この世の不可能が可能になっちまう。夢ってのは不思議だ、自由なんだけど、何をみるかわからない、あたり現実と一緒だ。体を失った魂はこう夢の向こうで何をみるんだろうかね?子供の頃ってなんにでもなれちゃう気がするもんなぁー。うん自由だなぁ幸せだよ。本能ってのは以外にもの凄いジャンキーだからね、生きるために、何か食べ物が必要だって時は、食うこと以外のものを犠牲にして、さ迷い続ける、煩悩も思想も捨て、食うことに向かっちまう、望むものに向かって、望み以外のものを捨てる。なんてねぇージャンキーみてぇだ。

あっもう一つあるんだ、この書くっていう行いの意味が、そりゃ、自分の内面と向き合うことだ、嫌な事がありゃ、目をそむけたり、ふたをしたりして逃げちゃったり、心の中にしこりっつうのか、ゴミみたいで醜いものが溜まる、ストレスだったりまぁ色々。そんなゴミをリサイクルするんだよ、言葉たちと向き合う、そして曖昧になっちゃった自分の存在と向き合う、自然と見えてくるんだよな自分が、未来が、過去が。
大体誰かとトラブったときの解決はやっぱ当事者間に答えはあるんだもんな、第三者達に相談をいくらしようが、最後に宝箱があるのは当事者の間だ、だって恋愛だって二人の間に愛があるのかないのかだったりするわけだし、かといって第三者はとるにたらないゴミ箱ってわけじゃない、たまーに彼らが鍵をもってたり、宝の地図をもってたり、暗号を知ってたり、彼らもまた旅人であるから、鳥が世界を見るときのような視点だったり、魚が海をしっているように、彼らからの視点っていうのはかけがいのないものであり、自分じゃ到底手に入らない景色を教えてくれるのである。

答えはどこに?宝箱のなかって、いったいその箱はどこ?わかんねーよ、探しにいきゃいいって、目的もなく、車のエンジンをかけてみたら、あぁガソリンは切れたし、真っ暗な闇の中でストップ、こりゃ太陽さんでも眠って待とうって、空見たら星がウインクして誘惑してるしよ、近づきたくて山に登ったら疲れちゃった、眠ろう、そして夢をみる・・・あぁ答えは夢の中にあったんだって。不思議だなー時に風まかせに待つことも、旅するのと同じで何かを得てしまう。