老人と富

結局ドラッグも酒も、タバコもなんにしろ、言葉の呪いとか霧をぶっ飛ばしてくれるものだと思える。普段俺達がどんだけ、言葉に呪われちまってることか。
何かを考えてる時だんだん自分の奥底から離れていって、たしかに意識は高まるんだけど、その意識が認識している自分ってのはなんだか、呪われている。ありままの自分を見れないような呪い。意識がなくなった瞬間ありのままの姿、そして心が一番求めているものが、意識の中に浮かんでくる、幸せの素である。こいつに従えば俺らはとことん幸せになれるはずだ。素の自分が浮かべるものってのはやっぱ自分に一番合ってる、気持ちよい。こいつはオナニーみてーだな。それでもいいんだ、誰かに何かを与えたり、愛とかなんでも何か与えろって信号が心から出てるときだってあるから。セックスにだってなるしよ。
言葉や意識でどれだけ心が縛られて不自由になっちまうんだろ?
アンハッピーな気分は大体この不自由さが起こすもんだと思う。落ち込んで落ちていって、何もなくなったら最後に出会うのは自分のありのままの姿。別に着飾ってもいない、ただの自分に向かい合う。
たまには他人の視点もなしに純粋に見て見るのもいいかなぁー。みんな誰もかもがいって、他人になることはできないって、他人と比べることもなく。っつうか、この世で生きているのが自分ひとりになったら、そりゃ他に愛す物がなくなって自分しかいなくて、それでも溢れちまう愛の矛先は自分だな。だからとことん一人になったら自分を愛せるかもしれない。
他人を避けたり、閉じてみたり、なんだかんだで、実は自分を守ろうとしてるんだから、実は自分を憎むのも、愛を感じるための動作かもしれないし、なんだか。
まーとにかく世の中なんて矛盾して成り立ってるんだから、愛がありゃ憎しみがある。自己嫌悪の時はまータイミングで愛する時を待つため、より愛を強く持つための準備期間だってことだ。