電子レンジ

here-there2005-12-14

たまに人は、愛がどう生まれたかなんていってる。太宰治曰く、愛はたしかにある、なにのはその表現方法だ、らしい、たしかにその通り。谷川俊太郎はこんなようなことを言っていた、いくら言葉を並べても表現し切れない、でも沈黙は全ての言葉である。みたいな。たしかにある基準には沈黙というのがボーダーになっている。その沈黙を受け入れるか、苦痛にならないか、そんなとこである、セックスは体で喋ることだ。そこに言葉はない。ただ快感のうめき声である。
まったく世の中にはスグ理解し合える人とできない人がおる。スグ理解できてしまうと、そのありがたみには気付かない。そこに複雑な言葉も面倒な仕草もいらない。もうそこに愛はあるんだろう、ないものは自己愛だろう。自分を愛さなきゃ誰かを愛せないなんてよく言ったものだ、結局そんな理解できる相手を愛する事は自分を愛するようなもんだ。
理解できない人を理解しようとする過程、それを愛だと思う人もいるだろう、理解したときに愛してると実感する人もいるだろうし、これは極めて簡単な例だと思う。苦いものやら甘いものやら飲みこんで、変な色に染まる、それが愛の証だなんて、そう思えればハッピーなんだろう。
苦労したから何か報われてもいいじゃない?なんて大それてる、まぁそれがある種の愛なのか勘違いなのか、俺の知った事じゃない。
この世に悪人がいるのは、まぁ良い事をしても必ず報われるわけじゃないからだと、ふと思った。そして悪いと見なされることのいくつかは、非常にお得なのである。
まぁお得なセールス品ほど劣悪なものはない、それはすでに腐りかけていたり、意味を失っているから安いのだ、本当に意味のあるものはその価値が変わらない。
刑務所にぶちこまれてれば、悪の価値も下がるんだなぁ。