個毒

寂しさが埋まる事は簡単である、孤独は埋まらない。
愛は孤独を埋めるのか?
孤独は愛を生むのか?
愛と孤独は相反するものなのか?
いや孤独は、個独であり、個毒である気がしてきた。先ず孤独は心の壁のようなもの。肉体をいくら重ねようと心を重ねることは錯覚なのかもしれない。人の心を完全に手にとるようにわからないという事実は、一つの個であることの証明である。あくまで個と個なのである。心と心が溶け合って一つになってしまったら、それが死なのであろう、個としての存在の消滅。もう自分の感覚は薄れ、それこそ存在意義はなくなる。なので孤独を埋めると言う概念を疑う。心を開いていくほど心の奥底の自分の存在意義はハッキリと浮彫りになり他人との相違、特に違うものに対するものは、さらに心の本質を写し出す、違いを孤独とするのだろうか?
共感しすぎた相手は心の鏡となる、闇も醜さも、共感を重ねる過程によってさらけだされる、さらけだして剥き出して、最後に残るのは個であるということ、共感し合い、同じであったりと、共同であったはずの二人は、最後に全て吐き出し、裸になったとき、個であることをもう一度、孤独であることを感じてしまう。それが個毒であるといった所以。体と体による快楽というものは、その痛みを麻痺させるためのものなのかもしれない。麻痺するような毒。儚い結合感覚、体と体の快楽があまりにも強く、理性を麻痺させ孤独を忘れさせる。
あぁ儚い。
心と心が結合すればただ消滅してしまう個としての存在。常に人が幸せを求めるのならば自分の感覚を鋭利にささやかな幸せをもすら察知し、感じていくべきなのだ、それゆえ人は孤独と向き合う。
街行く恋人達のように、ありふれた、誰かの理想であり、くだらないありふれたデートコースを疑うことなく享受して満喫するほうが、幸せなのかもしれない。そう麻痺したように流れていくような生き方、とても生ぬるい、個として凄く曖昧な感覚で生きたら孤独とは向き合うことはないだろう。更に体の快楽によって麻痺していく。ブラックホールの塵となる。
個と個が共感、共鳴する果てにはとても鮮やかに残酷にも輝く孤独が見える。宇宙の輝く星となる。
宇宙とセックスしたら、この世に存在する全てと繋がるのだろうか?全てになることができるだろうか?もし、ただ個しての存在も宇宙という生命体の細胞の一つに過ぎないのかもしれないのなら。人は個であり全てである。きっと本能は全てであることを思い出すためもしくは、忘れないため、繋がることを求めるのだろう。
生は孤独、結合は死。誰かがセックスを小さな死と呼んでいた。愛とは?
ただの甘いものなのかもしれない、醜さも許してしまう甘さ、個であることによる不完全さ、それは完全体である生命体の中から分離したら、個は不完全である。それ故、繋がるため、不完全さを許す温かな気持を愛と呼ぶのかもしれない。孤独は愛を求める。終わりはない、愛は孤独を埋めるわけではないから、ただ孤独にやさしく寄り添う毛皮のようなもの、痛みを包むもの。そうして孤独は生き続けるのだ。終わりはない。剥き出した凍える心に愛のヌクモリを…。孤独の爪が傷つけないように。