過剰な手錠

自由ゆえの孤独。束縛における安心と自由の死。誰かを愛するってのは自分らしくいれなければ不可能に近い。きっと愛は人の奥底から沸き上がるものだから、自由な方が愛の通り道はまっすぐで広くなると思う。自分らしくいる時の余裕は大事である。
束縛がキツいとよく聞く。自分が浮気してるから相手の事も疑うという心理もよく聞く。
ただね、大切な人に対してあるがまま、偽りなく正直者でありたいと想う。やさしい嘘や愛するがゆえの束縛もあるだろうけど。極力避けたい。
自分に対して厳しく、相手にはやさしく、束縛はある意味その逆だと思う。自分が苦労した分など相手におしつけたら迷惑、それは個人差があれど、言わずとも少なからず伝わると思う。
束縛より甘い話、好きという一言がずっと意味を持つと思える。もしくは好きという気持ちの伝わるような行動。
束縛よりずっとやさしく強く、歯止めをかけてくれる気がする。
嘘をつかずに生きるなんて苦しいけどね。疲れるし、背負うものは増えるし。まぁ嘘と付き合うより好きな相手を背負って生きる方がマシという意味がある。
詰まるところ、嘘もなしにありのまま向き合える相手はとても大切な人だと想うのです。
やましいことをしても、正面から向き合える事、不器用かもしれませんが向き合い許し受け入れる、正面からネガティヴな事を受け止める大きな器が欲しいなと想う。
と、束縛が激しいと言う相談を聞きながら思いました。
なかなかパーフェクトな相手なんかいねえからうまくバランスを取るしかないんだけど、向き合えてそれでいて受け入れ合える相性ってのは良いなと思える。
無言や不在に隠れたキラキラした時間や思想、行動が大切。言葉も姿もなくても誰かの心の中に生きること、また誰かが生きていること、これも大切。
心の中で笑う人は孤独を和らげてくれるから。